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薩摩焼
![]() No1. 献上薩摩錦手龍形水注 幕末 75万円 |
![]() No2. 献上薩摩錦手人形 幕末 50万円 |
![]() No3. 献上薩摩錦手壷(一対) 幕末 70万円 |
![]() No4. 薩摩瑠璃釉福壽文水注 幕末 35万円 |
![]() No5. 京薩摩錦手菊花文瓶 明治初期 25万円 |
![]() No6. 薩摩錦手仙人文瓶 幕末 25万円 |
![]() No7. 薩摩錦手獅子菊置物 幕末 17万円 |
![]() No8. 薩摩錦手菊尽文鉢 幕末〜明治初期 18万円 |
![]() No9. 薩摩錦手花蝶文香合 幕末 16万円 |
![]() No10. 薩摩錦手紅葉人物文鉢 明治時代 13万円 |
![]() No11. 薩摩錦手唐子三足置物 明治時代 10万円 |
| 薩摩焼とは薩摩国鹿児島藩島津家の庇護の下に御用焼として焼成された陶磁器です。 桃山時代における特筆すべき文化の一つは千利休による茶道の確立と侘び茶の流行です。 利休門下の茶人として知られる17代当主・島津義弘も自領内での茶陶焼成を試みました。 文禄・慶長の役で朝鮮半島から陶工を招致してきた事が開窯の契機となっています。 薩摩焼諸窯は主に竪野系、苗代川系、元立院系、龍門司系、平佐系に大別されています。 庶民用の黒薩摩(黒物)と藩主用の白薩摩(白物)から始まり、 錦手、蛇蝎釉、三彩、火計り、鮫肌、宋胡録写し等、多彩な種類が知られています。 18世紀後半には平佐焼が興り、色絵や染付を中心とした華麗な装飾磁器が展開されました。 豪華絢爛の錦手は竪野系(藩窯)の窯で開発が進められ、19世紀に入って隆盛を極めました。 1855(安政2)年に28代当主・島津斉彬は近代化を目的として集成館を設立し、 苗代川の朴正官を召致して鹿児島県鹿児島市吉野町磯の別邸内に磯窯(磯御庭焼)を開窯し、 白盛絵具の実用化や金高盛技法の確立を行って錦手の完成に大きく寄与しました。 1857(安政4)年には磯窯の陶磁器製造所の支部が苗代川に設立され、 苗代川系の民窯でも錦手が焼成されるようになりますが、 磯窯は1863(文久3)年の薩英戦争で閉窯しました。 1858(安政5)年に江戸幕府はアメリカとの間に日米修好通商条約を締結し、 次いで、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を締結しました。 1859(安政6)年に長崎港、函館港(北海道)、横浜港(神奈川県)が開港され、 1868(明治元)年に神戸港(兵庫県)、新潟港が開港されて諸外国との貿易が開始されました。 1867(慶応3)年、鹿児島藩は朴正官が制作した錦手花瓶をパリ万国博覧会に出品しました。 更に1873(明治6)年のウィーン万国博覧会に出品された12代沈壽官の作品が好評を博し、 名声は飛躍して世界を市場にした錦手の大盛況時代を迎えました。 この華麗な装飾陶器は「SATSUMA」の商標で輸出され、欧米諸国で特に愛好されました。 このように好評を博した事から其々の土地でも薩摩風陶器は生産され、 本薩摩(鹿児島県)に対し、京薩摩、大阪薩摩、東京薩摩、横浜薩摩等と呼ばれています。 ◎薩摩錦手の発展契機 1648(慶安元)年、竪野冷水窯の有村碗右衛門は京都・御室窯で京焼を伝習しました。 本格的な薩摩錦手の焼成開始は18世紀末頃と考えられています。 1793(寛政5)年に竪野の金貞(和名:星山仲兵衛)と龍門司の川原芳工は各地の窯を視察し、 京都・錦光山の下で陶技を伝習しました。 1794(寛政6)年、帰国して錦手の製陶に着手しました。 1829(文政12)年の重久元阿弥の京都・仁阿弥道八の下での修行等を通じて技法は確立し、 磯窯での開発研究を基に確固たる地位を打ち立てていきました。 |