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二十四孝
| 二十四孝とは中国で古来有名な孝子二十四人の故事を元の郭居敬が選定したものです。 儒教を重んじた歴代中国王朝は親孝行を美徳・道徳基準として治世に活かしました。 日本にも伝来して模範とされ、御伽草子や浄瑠璃の素材になっています。 |
| ●虞舜 舜は早くして生母を亡くした為、父・瞽叟の後妻からあらゆる虐待を受けていました。 父、継母、異母弟は舜が気に入らずに何度も殺そうとしましたが、 舜は少しも恨みに思う事はなく、相変わらず従順で弟には慈愛を以って接しました。 このような舜の孝行は天帝を感動させ、 舜が田畑を耕す時には象が代わって耕し、鳥が代わって草取りを助けてくれました。 尭帝は舜の孝行ぶりに感心し、娘を娶らせて皇帝の座を舜に譲りました。 |
| ●漢文帝 漢の文帝は漢の高祖の第三子で母・薄太后に孝順を尽くしました。 母が病に伏した三年間は皇帝の身でありながら日夜その枕頭に侍り、毒見まで行いました。 文帝は徳治と礼儀を重んじて農業の発展に力を注いだ事で世は安定して隆盛を極めました。 文帝の統治時期は景帝の統治時期と併せて「文景の治」と称賛されています。 |
| ●曾参 曾参は孔子の弟子で母に孝順を尽くしました。 曾参が山へ芝刈りに行った留守の間に客人が来たので母はもてなそうと思いますが、 どのようにしていいか分からず、「曾参、早く帰ってきておくれ」と自分の指を噛みました。 曾参はしきりに胸が痛み、母が自分を呼んでいるのだと思って急いで家へ帰り着きます。 そして、母から経緯を聞いた曾参は無事に礼を以って客人をもてなす事ができました。 母が指を噛んで願ったのが曾参に通じたのは孝行の心で親子の情が深い証拠です。 |
| ●閔損 閔損は孔子の弟子で早くして生母を亡くしました。 父は後妻を娶って異母弟が二人でき、継母は実子を愛して閔損を嫌いました。 冬の寒い時期、実子には綿入りの暖かい着物を与えますが、 閔損には蘆の花の代用綿を入れた薄っぺらな着物しか与えませんでした。 ある日、父の外出に際して閔損が車を引く事になりますが、 寒さで震えが止まらず、引き手の綱を持つ手にも力が入らない始末です。 こうして父は後妻の閔損に対する仕打ちに気付き、帰宅して離縁しようとしました。 そこで閔損は「母が居れば私一人で寒い思いをすれば済みますが、 母に去られては三人の子は皆凍える事になります」と父に懇願しました。 継母はそれに感動して自分の過ちを後悔し、以後は実子のように閔損を可愛がりました。 |
| ●仲由 子路(仲由)は孔子の弟子で家は貧窮でした。 自らは野草を食べながらも両親には良い物を食べさせたいと 百里もの離れた遠くから米を背負ってきました。 両親の死後、仲由は高官となって楚国に赴任しました。 馬車に穀物を一杯積み込み、不自由のない生活を手に入れたもの両親の事を感慨深く嘆き、 「両親の為に米を背負いたくとも、もはや叶わない」と語りました。 |
| ●董永 董永は早くして母を亡くし、父を養う為に雇われ仕事で生計を立てていました。 父が亡くなると葬儀を出すお金を得る為に身売りして賄いました。 これに天上の仙女は感動し、地上に降りてきて董永と結婚して夫婦になりました。 その女性は一ヶ月の間に三百匹の絹織物を織り上げて董永の身柄を引き取り、 「貴方の親孝行な心に天が私をお命じになりました」と言って天に帰って行きました。 |
| ●ぜん子 ぜん子には年老いた両親がおり、目を患っておりました。 ぜん子は卓効のあると云われる鹿の乳を欲しがり、 鹿の皮を身にまとって鹿の群の中に紛れ込んで乳を搾りました。 ある日、猟師が本物の鹿と間違えてぜん子を射ようとした為、慌てて事情を説明しました。 それを聞いた狩人は深く感じ入ったという事です。 |
| ●江革 江革は早くして父を亡くし、母に孝順を尽くしました。 戦乱の中で江革は母を背負って難を逃れましたが、 幾度となく匪賊や盗賊に殺されそうになりました。 江革は「私がいなくなったら、老母を養うものがおりません」と訴えて許しを請いました。 後年、自らは貧乏をしながらも母親には不自由をさせませんでした。 |
| ●陸績 陸績は六才の時、袁術に謁見しました。 袁術は沢山の蜜柑を出してもてなしてくれ、陸績は蜜柑をこっそりと懐に隠し入れました。 ところが、帰ろうとした時に懐から蜜柑がこぼれ落ちました。 袁術は「何でこっそり蜜柑を持って帰ろうとしたのですか」と尋ねると、 陸績は「これを母に持って帰って食べさせてあげたかったのです」と答えました。 袁術はこれを聞いて「こんなに幼いのになんと親孝行だろう」と褒め称えました。 |
| ●唐夫人 唐夫人は姑・長孫夫人が年老いて食べ物を歯で噛めないので日頃から乳を飲ませたり、 髪をといたりして姑に仕えました。 後に長孫夫人は病気で死に臨み、一族を集めて、 「唐夫人の恩に報いず、死んでいく事が心残りです。 私の子孫も唐夫人の教養を真似て行うならば、行く末も繁栄するでしょう」と言いました。 このように姑孝行な人は稀であると誰もが褒め称えました。 |
| ●呉猛 呉猛の家は貧窮で部屋に掛ける蚊帳も無い程でした。 夏になると呉猛は自分の着物を脱いで親に着せ、自らは裸になって蚊に刺させました。 自分だけ蚊に刺されれば、蚊は親を刺す事は無いと考えて仕えました。 |
| ●王祥 王祥は早くして生母を亡くし、父の後妻からひどい仕打ちを受けていましたが、 継母にも孝順を尽くしました。 厳寒の頃、継母が魚を食べたいと言い出した為、王祥は川へ魚を取りに出掛けました。 しかし、川は氷で覆われて魚はどこにも見当たりません。 王祥は氷を解かそうと衣服を脱いでその場に伏し、 魚がいない事を悲しんでいると氷が少し解けて二匹の魚が氷上に出てきました。 王祥は天に感謝し、持ち帰って継母に与えました。 この魚を取った場所には毎年、人が伏している形が氷上にできるという事です。 |
| ●郭巨 郭巨の家は貧窮ながら母と妻の三人で仲良く暮らしていました。 後に男の子が産まれますが、郭巨は子供を養い、ますます生活が苦しくなると、 母に食べ物さえも十分に与えられないようになるのではないかと心配しました。 郭巨は「母は死んだらそれきりだが、子はまた授かればいい。この子を埋めて母を養おう」と 妻に言うと妻は悲嘆に暮れましたが、夫の命に従うしかなく子を埋めに行きました。 夫婦が子を埋める為に穴を掘ったところ、土の中から黄金の釜が出てきました。 その釜には「孝行な郭巨に天から与える。誰も取ってはならない」と記してありました。 夫婦は黄金の釜を手にして喜び、母に孝行を尽くして子供を養う事ができました。 |
| ●楊香 楊香は父と山中に入ったところ、荒々しい虎に出会いました。 楊香は虎が去る様に願いましたが、叶わないと知ると父が食べられないように 「私の命を虎に与え、父だけは助けて下さい」と懸命に天に祈りました。 すると、今までは猛り狂っていた虎が尻尾を巻いて逃げ去り、父子共に難儀を逃れました。 |
| ●朱寿昌 朱寿昌は早くして母と生き別れ、五十年が経過しました。 ある時、朱寿昌は役人でありましたが、職や妻子も捨て、秦という所へ尋ねて行きました。 そこで「母に合わせて下さい」と言い、自らの血で経文を書いて天に祈願しました。 その志が深い為、遂に母を訪ねあてる事ができました。 |
| ●ゆ黔婁 ゆ黔婁は孱陵の役人になりましたが、赴任して十日も経たずに胸騒ぎがした為、 職を辞して帰ったところ、心配していたとおり父はひどい病気を患っていました。 ゆ黔婁は医師に症状を尋ねると「病人の大便を舐めてみるとよく分かる」と言われたので、 ゆ黔婁は舐めてみたところ、味わいが思わしくなかったので父の死を悟り、 北斗の星に平癒を祈って父の身代わりに死ぬ事を望みました。 |
| ●老莱子 老莱子は幼い頃より両親に孝順でしたが、既に七十歳にもなっていました。 しかし、両親の前では派手な着物を身に付け、子供のように戯れていました。 このようにしたのは自分が老人になっている様子を両親に見せると、 息子もこんな歳になってしまったのかと思って悲しむのを恐れ、 又、親自身が年寄りになった事を悲しませないようにした為です。 |
| ●蔡順 王莽の時代に世の中は乱れ、飢えと渇きに苛まれました。 蔡順は母の為に桑の実を拾って熟したものと熟さないものとに分けていました。 その時、盗賊が現れて蔡順に「どうして桑の実を拾い分けているのか」と尋ねたところ、 「私には一人の母がおり、熟したものは母、熟していないものは私の食べる分です」と 答えました。非道な盗賊も蔡順の孝順な心を知り、米と牛の足を与えて去って行きました。 |
| ●黄香 黄香は早くして母を亡くし、父に孝順を尽くしました。 夏の暑い時には枕や敷物を扇いで涼しくし、 冬の寒い時には冷たい布団を自分の身体で暖めておきました。 これを知った太守・劉讙という人物は高札を立てて黄香の孝行を褒め称えました。 |
| ●姜詩 姜詩は妻と和合して母に孝順を尽くしました。 母は日頃から清水と鮮魚の膾を好んでいました。 夫婦は遠くまで出向いて清水を汲み、鮮魚を取って膾を母に差し上げました。 ある時、家の側から綺麗な水が湧き出て鯉が踊り跳ねてきたと伝えられます。 姜詩と妻の孝行に心を動かされた天が授けたものとされています。 |
| ●王褒 王褒の父・王義は皇帝の勘気に触れて死刑に処されました。 王褒はこれを恨み、皇帝の居る方角へは決して向かって座らない程でした。 父の墓所に礼拝し、柏の木に縋り付いて泣き悲しむと涙で木も枯れたという事です。 生前に母は雷を恐れていましたが、母の死後も雷の鳴り響いた折には墓所へ行きました。 死後における孝行もこれ程である事から生前の孝行は計り知れません。 |
| ●丁蘭 丁蘭は母が亡くなると離別を悲しみ、木像を作って生きている時のように尽くしました。 丁蘭の妻はこれを疎かにし、火を付けて木像の顔を焦がしてしまいます。 すると、妻の顔も腫れ出し、二日も経つと髪の毛まで落ちて無くなりました。 驚いた丁蘭は木像を大通りに移し、妻に侘び事を三年間させました。 そうして一夜の間に風雨の音がして木像は一人で元の場所に戻ったといいます。 |
| ●孟宗 孟宗は早くして父を亡くし、年老いた母を養っていました。 真冬であるのにも関わらず、病気がちの母は筍が食べたいと言い出したので、 竹林の中を探し回りますが、冬に筍がある筈もなく、見つける事ができませんでした。 孟宗は思いのままにならない事を悲しんでいると大地が裂けて筍が生えてきました。 大変喜んで母に吸い物を差し上げたところ、病も癒えて天寿を全うしました。 |
| ●黄庭堅 黄庭堅(山谷)は詩人の祖と云われています。 妻や使用人もおりましたが、母の用いる便器を自ら洗い、母に孝順を尽くしました。 一事をもって万事が知られるように黄庭堅の孝行は天下に知られる事になりました。 |