朝鮮古美術の買取 古美術天平堂

朝鮮古美術

    • 朝鮮古美術 No1.
    • 李朝染付龍文壺
    • 李朝後期
    • ¥350,000
    • 朝鮮古美術 No2.
    • 李朝瑠璃釉草花文瓶
    • 李朝後期
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李氏朝鮮(李朝)

李氏朝鮮とは1392年に李成桂が朝鮮半島に建国した朝鮮最後の統一王朝です。
朝鮮の国号は李成桂が明国王に認知を求め、1393年に採択した経緯があります。
「李朝」の呼称は通称にすぎませんが、
日本ではこの通称が定着して長く用いられています。
漢城(現:ソウル)を首都とし、
政治理念を儒教において絶対的な社会性としました。
国教である儒教の精神は人々の生活の規範として深く浸透し、
現世の実質的生活を尊び、清廉潔白を崇め、醇朴で倹素な気風を養う事が理念とされます。
節用を重んじた体制下では遂に色絵が焼成される事はありませんでした。
このように李朝では高麗時代の仏教が衰え、抑仏崇儒政策が急速に推し進められました。
白は神聖と簡素を旨とする清浄無垢な色彩であり、
祭器においても白磁が用いられました。
日清戦争(1894〜1895)後の1897年に国号を「大韓」と改称しました。
日露戦争(1904〜1905)後は日本の保護国となり、
1910年の韓国併合で滅亡しました。

1.李朝前期 15世紀〜16世紀末
李朝前期の陶磁器は概して粉青沙器と白磁が主流を成しています。
粉青沙器は高麗青磁の技術的伝統を継承し、新時代に即応して大きな変貌を遂げました。
粉青沙器とは灰青色の素地に白土で化粧掛けを施し、釉薬を掛けて焼成した物です。
象嵌、印花、掻き落とし、線刻、鉄絵、刷毛目、粉引等の種類が知られています。
象嵌と印花が高麗青磁の延長線上に先行し、
白化粧の装飾技法が取り入れられて粉青沙器の本領は発揮されました。
又、李朝前期は本格的な白磁生産への移行期でもあります。
乳白色の白磁は清浄を尊ぶ儒教精神と共に広く好まれ、宮中御器にも専ら用いられました。
京畿道広州郡は李朝全期を通じて中心的な役割を果たした一大生産地であり、
15世紀から官窯としての役割を担い、燃料の薪を求めて広州郡内の移動を繰り返しました。
牛山里、道馬里、樊川里等には早い時期から活動していた窯跡が知られています。
上質の白磁は宮中御器や中国に対する進献用として相応しい品格が要求されました。
15世紀からは中国陶磁の影響下に見事な筆致で格調高い染付が僅かながら焼成されました。
宮中から専門の画員が派遣されて彩画に当たった事も幾つかの文献に記載されています。
16世紀末には豊臣秀吉の侵略(壬辰・丁酉の乱)で多数の陶工が日本軍に召致される等、
朝鮮半島の作陶は大きな打撃を受けました。

2.李朝中期 17世紀〜18世紀前半
李朝陶磁史を区切る上で最も重要な変革は、
16世紀末の豊臣秀吉の侵略(壬辰・丁酉の乱)にあるといっても過言ではありません。
更に17世紀に入ると清軍の侵略(丁卯・丙子の乱)が続いて陶磁生産はほぼ停止します。
こうした戦乱の続いた期間(約40年間)は政治、経済、社会、文化等のあらゆる面が停滞し、
李朝陶磁においても大きな断層を生じた暗黒の時代でした。
李朝中期は白磁の生産に加え、鉄砂が盛んに焼成されました。
1720年代に官窯が金沙里に移設されると白磁や染付が中心に焼成されました。
特に染付はこの窯で本格的に生産が再開したと考えられており、
中でも余白を残しながら簡潔に草花文が表現された著名な秋草手は高く評価されています。
18世紀にはごく僅かではありますが、辰砂も焼成されました。
鮮やかな紅色を呈した発色は色絵の生まれなかった李朝陶磁で最も華やかな作品です。
この他にも広州官窯や地方窯の生産体形とは全く異なった系列に釜山窯が知られています。
1639(寛永16)年〜1718(享保3)年頃まで対馬藩が釜山の倭館内で経営しました。

3.李朝後期 18世紀後半〜19世紀
1752年に李朝最後の官窯は金沙里から分院里に移設されました。
以後、1883年に分院里が官窯から民窯に移管されるまでを李朝後期と区分します。
李朝後期は中国からコバルト顔料の輸入が潤沢になった事で染付の生産が隆盛しました。
染付が増加する一方で鉄砂は目立って減少しますが、代わりに辰砂が用いられました。
分院里窯の初期には金沙里窯と区別の付かない位に優美な物もありますが、
時代が下がって国力が疲弊すると素地、成形、文様等は次第に俗悪化していきました。
官窯の固定による安定した制作環境は漢江という大水路に恵まれた結果でもありましたが、
同時に地元の資材調達だけでは需要に追い付けなくなった生産量の拡大を物語っています。
この頃の分院里窯は宮中御器の生産組織であったばかりではなく、
経済の発達に比例した旺盛な民間需要にも応えざるを得なくなっていました。
寧ろ、御器生産より一般顧客を対象にした需要の方が重要視されたともいわれています。
優れた技法で祭器や日用雑器に至る多種多様な器種を焼成しましたが、
中でも最も特徴を発揮しているのが水滴や筆筒を始めとした文房具です。
当時の文人達が競い合って買い求めた様子が文献や優れた違例の多さからも窺えます。
1883年には遂に分院里窯も民営化され、約500年に亘った栄光の歴史を閉じました。

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