古萩の買取 古美術天平堂

古萩

茶人間で絶大なる人気を誇ってきた茶陶 「萩焼」

萩焼とは長門国萩藩毛利家の庇護の下に御用焼として焼成された陶器です。
「一楽、二萩、三唐津」と謳われるように茶陶の分野において高い評価を受けており、
当時から絶大なる人気を誇っていた事が窺えます。
毛利輝元は112万石を領有する大大名でしたが、
関ヶ原の戦いで敗れて領地を周防・長門の36万石へと大減封され、
1604(慶長9)年に長門国萩に入封して初代藩主となりました。
松本御用窯(松本萩)は文禄・慶長の役で召致されてきた渡来陶工・李勺光(兄)と李敬(弟)が、
輝元の命で松本村中ノ倉(現:山口県萩市椿東)に開窯した事に始まります。
創始時期は1604(慶長9)年から数年も経たない間とされています。
輝元は千利休の弟子として名高い大茶人であり、
利休から受け継がれた高麗茶碗への傾倒が萩焼の原点ともなり、
茶陶としての地位を揺るぎないものとしていきます。
当初は李朝色の強い大振りの茶碗が多く見られますが、
ほどなく高麗茶碗を強く意識しながら織部好みを取り入れた様式に移行します。
こうした割高台、御所丸、彫三島、伊羅保等の織部好みの古萩茶碗は多く確認されており、
輝元の養子・毛利秀元が古田織部の高弟で深い交遊関係にあった事が指摘されています。
やがて織部スタイルは消えて素直な碗形の茶碗が主流となっていきます。
1657(明暦3)年に深川村三ノ瀬(現:山口県長門市深川湯本)に深川御用窯(深川萩)が分窯し、
松本御用窯は李敬(坂家)、深川御用窯は李勺光(山村家)の系統と区別が明確になりました。
萩焼は外部への販売を禁止していた事から世間に出回らなかったとされており、
1657(明暦3)年頃から一般公開・販売が許可されると、
江戸中期の茶会記にも登場するようになります。
古萩茶碗とは初代坂高麗左衛門(李敬)から3代坂新兵衛(忠方)までの作品を指しますが、
現在では江戸時代までを広く古萩として取り扱っています。
江戸後期からは装飾性が強い大形の壺、鉢、置物等の細工物が多くなります。
1871(明治4)年の廃藩置県によって御用窯が廃止され、
萩焼においても大きな変動を迎えましたが、
現在では三輪家を中心に伝統や風格が受け継がれています。

松本御用窯(松本萩)

松本御用窯(松本萩)とは松本村中ノ倉(現:山口県萩市椿東)で焼成された陶器です。
文禄・慶長の役の際に召致されてきた渡来陶工・李勺光(兄)と李敬(弟)が、
萩藩初代藩主・毛利輝元の命で松本村中ノ倉に開窯した事に始まります。
創始時期は1604(慶長9)年から数年も経たない間とされています。
1625(寛永2)年に李勺光の子・山村新兵衛光政は、
輝元より「作之允」として松本御用窯の長に任じられました。
李敬も2代藩主・毛利秀就より「高麗左衛門」の名前を賜りました。
1641(寛永18)年に光政が城下において藩士を故殺する事件が起こって、
1653(承応2)年に光政の高弟・蔵崎五郎左衛門達が深川村三ノ瀬に移住した後は、
坂家が松本御用窯の長として管理するようになりました。
この陶工達の移住は松本御用窯の縮小を招いた為、
藩は1663(寛文3)年に三輪家と佐伯家を新たに御雇細工人として召し抱えました。
1817(文化14)年に林家(佐伯家の先祖の姓)は断絶し、
坂家三輪家は代々継承されて現在に至ります。

深川御用窯(深川萩)

深川御用窯(深川萩)とは深川村三ノ瀬(現:山口県長門市深川湯本)で焼成された陶器です。
1625(寛永2)年に李勺光の子・山村新兵衛光政は、
萩藩初代藩主・毛利輝元より「作之允」として松本御用窯(松本萩)の長に任じられましたが、
1641(寛永18)年に光政が城下において藩士を故殺する事件が起こり、
光政は法体となって名を松庵(正庵)と改めて松本御用窯から転居しました。
こうした山村家の失墜を受け、
1653(承応2)年に蔵崎五郎左衛門・勘兵衛は独立開窯を願い出て深川村三ノ瀬に移住し、
1657(明暦3)年に赤川助左衛門・助右衛門の協力を得て深川御用窯を築窯しました。
これを受けて藩は光政の子・山村平四郎光俊を深川御用窯の長に任じました。
尚、光政は1658(明暦4)年に仇討ちに遭って死去しました。
深川御用窯は松本御用窯と同様に藩直営の窯であったのですが、
松本御用窯のように全ての製品を藩に納めるのではなく、
当初から一部は自家売りが認められていたようで、
民窯的性格を持ち合わせていた事が知られています。
1693(元禄6)年に藩直轄から地方(庄屋)支配となって民窯的性格を更に強め、
1699(元禄12)年には鞘入焼物(匣鉢に入れて焼成する事)も禁じられました。
1774(安永3)年に山村家5代・山村源次郎光長が死去すると、
養子・源右衛門が服喪中に刃傷沙汰を起こして見島へ流罪となり、
李勺光の家系である山村家は断絶しました。
1786(天明6)年に赤川喜右衛門と坂倉万助が御雇細工人として召し抱えられますが、
既に御用窯と呼べる状態ではなくて経営的にも追い詰められていきました。
それでも幕末に焼物師は12軒が知られており、
蔵崎、赤川、坂倉、坂田、河村、木原、山下等の名前が記録に残っています。
明治以降は転廃業が相次いで昭和に入ると、
坂倉坂田、赤川家の系統を引く新庄田原の四家になって現在に至ります。

RETURN TO TOP