上野焼 高取焼 買取


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上野焼・高取焼




No1.
古高取耳付鉢
江戸前期
白旗山窯
金物師9代 中川浄益 手造
60万円

No2.
古高取徳利
江戸初期
内ヶ磯窯
45万円

No3.
高取鎗の鞘写肩衝茶入
江戸中期〜後期
東皿山窯
20万円

No4.
古高取耳付花入
江戸初期
内ヶ磯窯
30万円


No5.
上野櫛目文大徳利
江戸後期
皿山本窯
10万円

No6.
高取一重口水指
江戸後期〜幕末
東皿山窯
12万円

No7.
高取水指
江戸後期〜幕末
東皿山窯
9万円

No8.
高取大徳利
江戸中期
小石原中野窯
20万円




  上野焼とは豊前国小倉藩細川家の庇護の下に御用焼として焼成された陶器です。
小堀遠州の好みを受けて創出された遠州七窯としても知られています。
初代藩主・細川忠興(号:三斎)は関ヶ原の軍功で丹後国田辺から豊前国中津に国替えとなり、
1602(慶長7)年に豊前国中津から豊前国小倉へ入封しました。
忠興は渡来陶工・尊楷(和名:上野喜蔵)を召し抱え、
上野郷に本格的で大規模な形態を備えた釜ノ口窯を開窯しました。
優れた茶陶を数多く創出し、本流としての活動を成した事で知られています。
釜ノ口窯だけでは供給が不十分であった為、岩屋高麗窯も続いて開窯されました。
釜ノ口窯の厳しい均整美とは相反し、自由奔放で民需用的な要素が伺い知れます。
又、上野郷諸窯とは別に小倉城下の菜園場には藩主自らの指導による茶陶制作を主とした
お楽しみ窯も知られています。
その後、1632(寛永9)年に2代藩主・細川忠利が肥後国に移封した事で
上野焼は播磨国明石より入封した小笠原家に引き継がれました。
忠興が八代城に入封すると忠興に務める尊楷も二子の忠兵衛と藤四郎(徳兵衛)を連れ、
肥後国で八代(高田)焼を焼成しました。
一方、三男・十時孫左衛門と娘婿・渡久左衛門は上野郷に残され、
小笠原家の庇護の下に皿山本窯を中心として二家共同で製陶に携わりました。
享保年間(1716〜1735)には吉田家も加わり、1871(明治4)年の廃藩置県まで焼成されました。

1.釜ノ口窯 (現:福岡県田川郡福智町上野)
1602(慶長7)年〜1632(寛永9)年

2.岩屋高麗窯 (現:福岡県田川郡方城町弁城)
1607(慶長12)年〜1632(寛永9)年頃

3.皿山本窯 (現:福岡県田川郡福智町字皿山)
1624(寛永元)年〜1871(明治4)年

4.菜園場窯 (現:福岡県北九州市小倉北区菜園場)

  高取焼とは筑前国福岡藩黒田家の庇護の下に御用焼として焼成された陶器です。
藩窯の流れを汲んだ高取焼の窯は運命ともいえる浪々とした移窯を繰り返してきました。
小堀遠州の好みを受けて創出された遠州七窯として知られ、茶陶が中心に焼成されました。
その起源は文禄・慶長の役の際に召致されてきた渡来陶工・八山(和名:高取八蔵)が
初代藩主・黒田長政の命で鞍手郡鷹取山麓(現:福岡県直方市)に開窯した事に始まります。
正確な開窯時期は解明されていませんが、
長政が関ヶ原の軍功で1600(慶長5)年に豊前国中津から筑前国福岡に国替えとなっており、
初代藩主となった後の1602(慶長7)年頃に永満寺宅間窯で活動を開始したと推測されます。
1614(慶長19)年には同地区の内ヶ磯窯に移窯して本格的な製陶活動を展開しました。
焼成室14室と焚口1室から成る全長46.5bの大規模で最新式の能力を備えた窯でした。
千利休が没した後は利休の弟子としても知られる古田織部に注目が集められました。
織部は侘びを意識した桃山様式の豪快な作行や沓形、変形、掛分等の意匠を好みました。
内ヶ磯窯は織部好みの意匠を忠実に導入して当時の風潮に逸早く順応した特徴があります。
織部亡き後は遠州が将軍家の茶道具指南役を務め、次第に綺麗寂びへと変化していきます。
1623(元和9)年の長政没を機に八山父子は1624(寛永元)年に2代藩主・黒田忠之に帰国を
出願した結果、勘気に触れて嘉摩郡上山田村(現:福岡県嘉摩市上山田)へ蟄居させられます。
そこで少数の門弟達と共に身の回りの日用雑器を焼成する小規模な山田窯を開窯しました。
忠之は若い時期から茶器蒐集に関して尋常でない熱意を持っていた事が知られています。
後の1630(寛永7)年に八山父子は忠之より帰参を許され、
穂波郡合屋川内中村(現:福岡県飯塚市幸袋)の白旗山麓に白旗山窯を開窯しました。
これに先立ち、忠之の命で伏見(京都)の遠州の元に赴いて技術指導を受けたと伝えられます。
白旗山窯は遠州の美的理念を示す綺麗寂びの新思想に順応した作品が多く確認されており、
薄造りの瀟洒で洗練された成形美を醸し出している為、「遠州高取」とも呼ばれています。
著しい発展を遂げたこの窯を境に作風は大幅な変化を見せ、特に茶入には優品が多いです。
高取の名を歴史的に著名にしているのは華やかで瀟洒な造形を特徴とした遠州高取です。
遠州所持の国焼茶道具の中でも高取は多く、遠州と高取の関係深さが推察できます。
3代藩主・黒田光之、4代藩主・黒田綱政の時代にも度重なる移窯・増築が行われました。
1665(寛文5)年に上座郡鼓村釜床(現:福岡県朝倉郡東峰村小石原鼓)の小石原鼓窯に移り、
天和年間(1681〜1683)には光之と綱政の上覧を得て福岡城松の木坂矢倉で細工を行って、
御意に適ったものを小石原鼓窯に運んで焼成したという記録もあります。
1688(元禄元)年に早良郡田嶋村抱大鋸谷(現:福岡市中央区輝国)の大鋸谷窯へ移窯し、
長崎奉行別所・播磨守に依頼された不相応の品を焼成した事で光之の勘気に触れ、
1704(宝永元)年に閉窯となりました。
これより約12年間、高取藩窯の生産活動は休止したと伝えられています。
宝永年間(1704〜10)に荒戸新町(現:福岡市中央区荒戸)に御陶山を設けた事が文献に見え、
1716(享保元)年に早良郡麁原村上の山(現:福岡市早良区祖原)に東皿山窯を開窯しました。
これが藩窯の流れを汲む最後の窯で、1871(明治4)年の廃藩置県まで長期間を活動しました。
現在では高取八山(高取静山の長男)、高取八仙、鬼丸碧山、亀井味楽達が伝統的技法による
茶陶焼成を展開して綺麗寂び・遠州高取の風格を伝えています。

1.永満寺宅間窯 (現:福岡県直方市永満寺)
1602(慶長7)年頃〜1613(慶長18)年

2.内ヶ磯窯 (現:福岡県直方市頓野)
1614(慶長19)年〜1623(元和9)年

3.山田窯 (現:福岡県嘉摩市上山田)
1624(寛永元)年〜1629(寛永6)年

4.白旗山窯 (現:福岡県飯塚市幸袋)
1630(寛永7)年〜1664(寛文4)年

5.小石原鼓窯 (現:福岡県朝倉郡東峰村小石原鼓)
1665(寛文5)年〜1687(貞享4)年

6.大鋸谷窯 (現:福岡県福岡市中央区輝国)
1688(元禄元)年〜1704(宝永元)年
(※大鋸谷窯は文献上では高取藩窯の流れを汲んでいますが、未だ不解明な点が多いです。)

7.東皿山窯 (現:福岡県福岡市早良区祖原)
1716(享保元)年〜1871(明治4)年